祝福

リズと青い鳥」を見た。抑制的な演出で切実な人間関係の機微を描いた傑作で、全体に満ちる緊迫感は力によらない決闘と表現してもよさそうなほどだ。

演出上のクライマックスは、主人公ふたりが本当はどちらがリズでどちらが青い鳥なのかに気付くシーンと、それに続く第三楽章の演奏シーンにある。ふたりが自らの役割に気付く瞬間を画面を二分割して表現しているのは全体を通して唯一と言ってもいい抑制を外した演出だ。演奏を自分のものにできないでいる学生が音楽家のアドバイスで解釈を掴む、そして才能を解放した青い鳥は渾身の演奏を披露してみせる。

これだけであれば、つまり演出上のクライマックスとテーマ上のクライマックスが完全に一致していたのであれば、ずいぶんおさまりのよい作品に仕上がっていただろう。あるいは音楽は背後に設定された情景や感情を伝えるためにあるものだという音楽の目的についてのイデオロギーの臭みをまとってしまっていたかもしれない。だが本作をそれらとは違う美しいものにしている決定的な要因は、テーマ上のクライマックスは少しずらしたところに置かれている点にある。

希美がみぞれを吹奏楽部に誘ったときのことを回想するのは、音楽室で「リズと青い鳥」を一緒に読むシーン、みぞれの告白の後のシーンの二箇所あり、前者では「吹部」、後者では「吹奏楽部」と言っている。部外者の言い方をしている後者が実際あったことに近いのだろう。「よく覚えてないんだわ」と言っていたのは、思い出せないふりをしていたという解釈も可能ではあるだろうが、たぶん本当に忘れていて、みぞれの言葉によって思い出したのだろう。そこには自分がみぞれにとってどういう存在だったのかを客観的に見つめなおす端緒が現れている。親友との越えられない才能の差に折り合いをつけただけではない。

牛尾憲輔はビーカーをこすった音のピッチを変化させて重ねた和音によるアーメン終止を「祝福」に代えたという。

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音作りの手法はエレクトロニカの文脈にあるが、あいまいな進行から最後にIの和音に落として祈りや祝福を表現するというのはどちらかというとクラシックの発想で、この作品によくそぐう。アーメン終止の名称の由来となった賛美歌はもちろん、学生コンクール制度を通じて吹奏楽の近隣文化となっている合唱音楽における「原爆小景」の「永遠のみどり」や「ティオの夜の旅」の「祝福」が作例として挙げられるだろう。このような「祝福」の強い普遍性を踏まえ、そして何より画面を見ていれば明らかなように、祝福は音楽家への道を踏み出したみぞれだけでなく、希美にも、またすべての生徒たちにも向けられている。

だから絵本の世界の中で飛び立った青い鳥は群れをなしているのだ。図書室を後にしてそれぞれの道を歩き始めたふたりの後ろには共に鳥が舞っているのだ。リズと青い鳥は役割が逆だっただけじゃなく誰もが青い鳥なんだ、 鳥籠たる学校は一時の庇護者であって誰もかれもそこから飛び立っていくんだ、そして希美には、君にもきっとできるよ(それは音楽の世界でではないかもしれないけれど)、という残酷で優しい祝福が贈られている。

下校シーンの「私も、オーボエ続ける」は直前の希美のセリフから繋がっているような繋がっていないようなあいまいな宣言だが、「(希美といるためでなくても)オーボエ続ける」と読むこともできるだろう。TVシリーズでも本作でも、みぞれの才能の開花は希美との問題が(自分の視点では)ひとつ片付いた後に起きている。プロの演奏家を目指すのならば、彼女はそれを自分の制御下に置かなければならない。ふたりのずれた関係は大きく変わってはいないけれども、互いの自立を前提にした、言ってみればより健全な関係への扉を開いた瞬間を見せてくれたのかもしれない。

本当のラストシーン、希美がみぞれに恐らくは幸せな何事かを言うそのセリフは観客には聞こえない。校舎に存在する物音の視座からふたりの関係を描くという方針から導かれる必然的な演出であるとともに、ふたりはもう大丈夫だという作り手の信頼が込められたものでもあるだろう。